オープン・エンド ――終わりのない対話 / 宮井 和美(モエレ沼公園 学芸員)

四方に窓のある明るい部屋には、移ろう光線がそのままに差し込んでくる。室内には円状のテーブルや展示台と思わしきものが点々と配置され、その上には、食器や釣り道具、玩具、照明器具などの日用品や、果実、木の枝といったものが組みあわされ、積み上げられている。白いカーテンの向こうにはいくつかの部屋。壁面に設置されたヒトの背丈ほどの大きな円ガラスは、テーブル上に展開されたカラフルな作品群をほの暗く映しこむ。
ややしばらく佇んで、すっかり自分がその風景になじんだ頃、上空から鳥が降りてくるのに遭遇する。テーブルの上には綺麗に盛りつけられたエサがある。一瞬にしてそれは崩されるが、エサを食み、鳥は満足げだ。
室内に鳥がいるという事実は、ちょっとした驚きと喜び、そして謎をもたらす。その疑問を解き明かすために、頭はおのずと想像をめぐらせはじめる。はたして鳥の見る/存在する世界とは?――しかし、共通言語のない生物との対話は空をつかむようで、答えは出ない。

本展で展開されたこれらの作品に、狩野哲郎は《Savage structures/ 野生のストラクチャ》というタイトルをつけている。この名称には、文化人類学者であるクロード・レヴィ=ストロースの著書『野生の思考(仏:La Pensée sauvage)』、そしてレヴィ=ストロースが展開した構造主義(仏: structuralisme)の名が直接的に引用されている。野生の思考とは、西洋人から偏見に満ちたまなざしを受ける「未開人(sauvage)」の風俗や生活習慣、神話から、共通する様式=構造を見いだしていき、背後にはそれらを支える知の体系があることを論理的にあぶりだす、世界把握の一形式である。
狩野は、園芸用品や鳥よけなどの既製品に、鳥や果実などの人間がコントロールしがたい生物を介在させるインスタレーションで知られている。本作においてもその手法は引き継がれており、『野生の思考』における異なる文化圏の人類よりも、更に離れた世界を生きる存在として「鳥」が象徴的に扱われている。
作品で使用される鳥は、作家の飼い鳥であるが、名前はない。狩野に数多いる動物の中で、なぜ鳥を選ぶのかと聞くと、ヒトとの距離感がちょうど良いからという答えが返ってきた。人間の友ともいうべき犬や猫では鑑賞者が感情移入をしすぎるし、は虫類や両生類では、ヒトと異なりすぎてイマジネーションを載せることが難しい。鳥の中でもペットとして飼われる種は避けているという。狩野の写真作品のシリーズに《無名の鳥/ Anonymous birds》があるが、このタイトルは狩野の作品制作における対象物との距離感をよく表しているだろう。
ある存在に名前をつけて呼ぶ。狩野は認識を単純化し、愛着を深める効果をもたらすこの行為を周到に排除する。言葉から切り離すこと――これは、鳥だけでなく、その他作品に使用されている事物へも形を変えて適用されている。本作では、『野生の思考』で採用されているブリコラージュ(器用仕事)の手法で、「その場にあるもの」として作家によって選択された大量生産の日用品や家具、木々の枝や果実などが、その用途、つまりは名前を外された後、色彩や形状、テクスチャー、サイズによって任意に再構成されている。これまで極力「作らないこと」を作品制作の手法として採用していた狩野だが、ひとつの方法に固執しないためのスタディとして、本作では自らが制作した磁器やガラスのオブジェが既製品と同様に扱われている。固有の用途や文脈、市場的な価値、そして思い出や労力からも意識的に切り離されたこれらの事物は等価の存在となり、組み替え可能、読み替え可能な彫刻作品となっている。この言葉の介在しない等価の構造は、ある事物に名前を与えた瞬間に消えてしまう不可思議な気配と想像の世界を守っている。

 さて、こうして作り上げられた場所を、鳥はどのように認識したのだろうか。展覧会がはじまり、鳥が放たれてから、その行動は徐々に明らかになっていく。初日、安全な場所から降りてこなかった鳥の行動範囲は日に日に拡張され、エサ場や水浴び場、止まり木を徐々に発見していく。会期が終了する頃には、会場のほぼ全体が鳥の新しいテリトリーへと変化していた。しかし、彼/彼女が何を認識していたのかは、想像の範囲から出ない。わかるのは具体的な行動、どの場所を気に入り、どの場所をテリトリーにしたのかだけだ。
展覧会タイトルである「あいまいな地図、明確なテリトリー/ Abstract maps, Concrete territories」の、AbstractとConcreteは哲学・美術分野における抽象・具象から、map、territoryについては一般意味論の創始者であるアルフレッド・コージブスキーの「地図は現地ではない(The map is not the territory)」というセンテンスから取り、対比的に用いているという*1。記号や言葉で書き表された地図は、この世界そのもの(現地)ではないが、わたしたちの認識はその地図によって形作られている。狩野の作品は、その合理的で機能的な思考様式に囚われている我々を、抽象的で記号のないあいまいな世界へと呼び込む。

これまでの狩野の作品における重要な要素のひとつとして、「つながる」ということが指摘されている*2が、本展ではそれが、会場となったガラスのピラミッドの要であるガラスという素材によって実現している。この建築物は名前が表す通り、1,113枚もの大ガラスを使用した高さ31mの変形ピラミッド型のアトリウムを持つ。展示のメイン会場はこのアトリウムに隣接した、各壁面に窓のある明るい空間であった。「その場にあるもの」として作家に選択されたこの場の要素であるガラスは、個々の作品の一部として会場中にさりげなく配置された。その大小の円ガラスは各々が少しずつ関わりあいながら、屋外からの光・風景を反射し、取り込み、また反対に、屋内の風景を反射しあい、屋外へと運んでいった。
透過するガラスは、内と外をあいまいにさせる素材である。内側にいながら外側の世界を知ることができ、外側にいながら内側の世界をのぞき見ることができる。また、一方でガラスは反射することで相対する自らを映し出し、客観的な認識を促しもする。――しかし、はたしてその客観で想定されている主体とは何であろうか?多用されたガラスは、私たちの認識をあぶり出す象徴でもあるだろう。反射は繰り返され、幾重にも読み替えられる世界を構築していく。そして、その世界の上空には、鳥が飛んでいる。

*1 作家による「あいまいな地図、明確なテリトリー / Abstract maps, Concrete territories」展プランより。
*2 近藤由紀「予兆の場の創造」『アーティスト・イン・レジデンス・プログラム2010/秋「吃驚」カタログ』青森公立大学国際芸術センター青森、2011年、p.48

(宮井和美「オープン・エンド ――終わりのない対話」、ガラスのピラミッド開館10周年記念展 狩野哲郎「あいまいな地図、明確なテリトリー / Abstract maps, Concrete territories」 記録集、2014年、モエレ沼公園に収録)


2013, Text