Red Bull Music Academy Tokyoの舞台づくり

隈研吾 × 窪田研二 × 伊藤ガビン(ボストーク)鼎談
http://www.redbull.com/jp/ja/music/stories/1331688696842/rbma-reception-talk-show

関連ムービー(1:40〜あたりからインスタレーションがうつっています)
http://www.redbull.com/jp/ja/music/stories/1331688696842/rbma-reception-talk-show?t=97.996608&videoId=3887106742001

(想像しなおしIN SEARCH OF CRITICAL IMAGINATION展覧会カタログより) / 正路佐知子(福岡市美術館 学芸員)

「展示室に鳥のための空間を作り、草間彌生の屋外彫刻《南瓜》を展示室内に入れる。そして鳥を放つ。」それが、狩野哲郎が最初に出した本展覧会の展示プランだった。本気なのか冗談なのかわからないいつもの口調で発せられたこの案は、突飛なようだが狩野の問題意識をよく表している。鮮やかな黄色に黒いドットが目を惹く《南瓜》は20年近く福岡市美術館の屋外に展示されてきた。屋外彫刻として作られてはいるものの、強い日差しや風雨に曝されるためFRP(強化繊維プラスチック)という素材にとって相応しい環境に置かれているとは言い難い本作を、温湿度の安定した空間でUVカット照明の下展示することは作品保存の観点から言えばこれ以上のことはない。しかし同時に《南瓜》は屋外彫刻としての本来の機能を剥奪されてしまう。また、その空間に鳥を放てば状況はより複雑になる。屋外であれば日常的に発生しているはずの鳥の糞害が、美術館展示室の中では非常事態として認識されるのだから。残念ながら実現には至らなかったが、狩野はこの案において美術作品および美術館の役割や機能、そしてわたしたちの固定観念を脱臼し、美術そして美術館の不条理なルールとそこに身を浸しているわたし(たち)の立ち位置に問いを投げかけるものでもあった。

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オープン・エンド ――終わりのない対話 / 宮井 和美(モエレ沼公園 学芸員)

四方に窓のある明るい部屋には、移ろう光線がそのままに差し込んでくる。室内には円状のテーブルや展示台と思わしきものが点々と配置され、その上には、食器や釣り道具、玩具、照明器具などの日用品や、果実、木の枝といったものが組みあわされ、積み上げられている。白いカーテンの向こうにはいくつかの部屋。壁面に設置されたヒトの背丈ほどの大きな円ガラスは、テーブル上に展開されたカラフルな作品群をほの暗く映しこむ。
ややしばらく佇んで、すっかり自分がその風景になじんだ頃、上空から鳥が降りてくるのに遭遇する。テーブルの上には綺麗に盛りつけられたエサがある。一瞬にしてそれは崩されるが、エサを食み、鳥は満足げだ。
室内に鳥がいるという事実は、ちょっとした驚きと喜び、そして謎をもたらす。その疑問を解き明かすために、頭はおのずと想像をめぐらせはじめる。はたして鳥の見る/存在する世界とは?――しかし、共通言語のない生物との対話は空をつかむようで、答えは出ない。

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絵か彫刻

インスタレーションの要素を還元し、絵か彫刻として提示する。
取り出した要素には手を加えずに注意深く分析し整列する。 鳥や植物の世界認識への想像力を手がかりに、曖昧な、あたらしい自然の設計ルールにそって構成されたこれらの要素をべつの極から見ると、絵か彫刻かもしれなかった。
陶磁器製品やガラス製品などの既成品や植物や果実などの自然物を組み合わせた、複数点のオブジェがる。 多様な素材を人工物/自然物、機械生産/手工芸、具体物/抽象物、有機物/無機物など単純に二極化してとらえるのではなく、元の文脈や機能から切り離し、何らかのベクトルを持たない色彩/形態/質感のファウンド・オブジェクトとして扱いコラージュ/アッサンブラージュする。 それらは明確な目的を持たない純粋な標識、あるいは野生のストラクチャとも言えるだろう。
作品の完成形からの逆算とは無関係に色彩/形態/質感は選択が繰り返されることは理想的な絵や彫刻からは少し遠くあったが、一見、非合理的にも思えるこの方法はいままだ存在しない可能性を持った何かを作るための唯一の合理的な方法でもあるように思える。

象牙の海岸、鹿角の山、野牛の草

海岸に流れついた一角の角は1本だった。
角ではなく牙だったかもしれないが、兎に角、虹の色は2か3か5か7あるいは無色の虹色で、うら啼く夜の鳥からは蛍光色に充たされて溶けゆく魚がよく見える。
奇数の特例になった獏はうしろ脚だけルールに従うが、夢を食べない大陸の獏は野牛の草を、凍った林檎を食べるのか。
牛は海に帰ったが、蹄は隠して持っている。
連なる島島には連なる鳥の舞うところが11つ、牡丹か紅葉を反射する水晶山は13つ。
金色の丘山を溶かして食べてしまったら、鹿の角も落ちるころ。
土地が沈んで傾いてきたらもう一度、理想的な象牙色の塔を建てるしかない。
いつでも海からやってきて、海岸に流れついた象には牙が生えていた。
海象の牙は疑いなく牙だったが、それらが確かに象牙と呼ばれるべきなのか、いまはもう/まだ確かめる術がない。

CV

狩野哲郎 Tetsuro Kano
美術作家

1980年宮城県生まれ。東京都在住。2005年東京造形大学造形学部デザイン学科環境デザイン / 都市環境コースを卒業した後、2007年に同大学院造形研究科美術研究領域修士課程 / 絵画コースでMFAを取得。2011年狩猟免許(わな・網猟)取得。

狩野は、既製品や種子・果実といった植物を組み合わせることで、空間へのドローイングとしての新しい「風景」を造り出してきました。2009年から取り組んでいるインスタレーション「自然の設計/Naturplan」では、時に作品の中に野鳥が入りこみ、人間にはコントロール出来ない「他者」が内包されます。こうした狩野の作品世界では、モノや空間があらかじめ持っていた意味や機能から逸脱して扱われることで、人間にとっての価値観や認識方法が宙づりにされ、普段、私達が意識することのない新たな知覚や複数の世界認識の存在を想像させます。狩野はこれまで、滞在型制作のプロジェクトを中心にインスタレーション作品を展開してきましたが、それと並行して、マスキングテープなどを用いた平面のドローイング作品や既成品のアッサンブラージュ、鋳込み成形による磁器、キャストガラスなどを組み合わせた立体作品も制作しています。それらの作品は個々の「造形物としてのあり方」を意識して制作されながら、同時に「他者」のための「風景」としてのインスタレーションの部分となり、新たな世界認識を示唆することでモノや場所の意味や価値を問い続けます。

近年の主な個展に「自然の設計 / Naturplan」(2011、ブルームバーグ・パヴィリオン・プロジェクト、東京都現代美術館)、「あいまいな地図、明確なテリトリー / Abstract maps, Concrete territories」(2013、モエレ沼公園、札幌)、「絵か彫刻/ Paintings or Sculptures」(2014、YUKA TSURUNO GALLERY、東京)、「Nature / Ideals」(2015 、SHISEIDO GALLERY、東京)。グループ展に「呼吸する環礁―モルディブ-日本現代美術展」(2012、モルディブ国立美術館、主催:国際交流基金)、「庭をめぐれば」(2012、ヴァンジ彫刻庭園美術館、静岡)、「想像しなおし In Search of Critical Imagination」(2014、福岡市美術館)、「Conditional landscape」(2014、グシュテリツァ福音教会、シビウ、ルーマニア)、「芸術植物園」(2015、愛知県美術館、愛知)など。

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CV

Tetsuro KANO

Artist

1980 Born in Miyagi, Japan
2005 BA, Environmental Design/City Environmental, Tokyo Zokei University
2007 MFA, Fine Arts, Tokyo Zokei University
In 2011, he obtained a license for hunting with nets and traps.

Tetsuro Kano was born in 1980. He holds a bachelor’s degree from the Department of Environmental Design/City Environmental at Tokyo Zokei University (2005), and a master’s degree from the Fine Art at Tokyo Zokei University (2007). His recent solo exhibitions include Naturplan (Bloomberg Pavilion Project Museum of Contemporary Art, Tokyo, 2011), Clear signs, Vivid tones (HARA MUSEUM ARC, Gunma, 2012), Abstract maps, Concrete territories (Moerenuma Park, Sapporo, 2013) and Nature / Ideals, Shiseido Gallery, Tokyo (2015). His recent group exhibitions include Breathing Atolls: Japan-Maldives Contemporary Art Exhibition (National Art Gallery, Sultan Park, 2012), To Wander a Garden (Vangi Sculpture Garden Museum, Shizuoka, 2012), In Search of Critical Imagination (Fukuoka Art Museum, Fukuoka, 2014), and Between Botany and Art (Aichi Prefecture Museum, 2015).

Having studied architecture and environmental design, Kano has discerned values and meanings that slip through human intentions by observing plants. Taking biologist Jakob von Uexküll’s concept of umwelt (often translated as “self-centered world”) as an inspiration, Kano has consistently been interested in the diversity of the worlds perceived by different organisms found in the everyday life sphere of human beings. The landscapes that Kano gives shape to using ready-made products in a way that deviates from their original purpose, or by incorporating the viewpoints of the Other, such as plants and birds, retain the existing compositions of a work of sculpture or painting, but allow a worldview open to values departing from art and to diverse forms of existence to concurrently reside in them. In recent years, he has produced works in places removed from the realm of art, such as a botanical garden, and the scale of the parts used in his sculptures and installations, focused in the past on the perception and scale of birds, has become a size smaller and more meticulous. Taking plants as its motif, and leading the micro-world of insects and microorganism that encircle plants into it, this exhibition invites viewers to imagine plural worlds where details acquire different identities for different organisms while giving rise to a whole.

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モエレ山について

イサム・ノグチはモエレ山を可視化した。
地図を、現地を書き換えた。
あの山はここがmoyre と名付けられた頃には見えなかった。
地図には存在しない類推の、形而上の、不確定な山だった。
透明な山も現地には存在していて、明確に誰かのテリトリーだった。
いつだって純粋な地図が必要だ。
さもなくば、木木も岬も見えないままだ。
誰かが海に出てそれを呼ぶまで私たちは岬を知らなかった。
鳥は先天的な方向感覚で魔術的な道を知るという。
夕暮れ時にモエレ山の頂上からガラスのピラミッドの方を眺めると、
無名の鳥たちが山頂、峰、峰をかすめて沼へと向かう。
回廊を、庭をめぐるように標識をたどる。
野生の地図にこの山は記述されているだろうか。
一枚で複数に読まれうる地図があることを想像する。
自然のプランはいつだってはかなく不変かつ抽象的な具体物なのだから、
あたらしい地図はすこし曖昧なくらいが呼吸するように美しい。

罠のような餌場

いつか消える山(山はいつか消える)

家の鳥を捕まえる

小鳥が入るので「ドア」は必ず閉めてください

庭をめぐれば / 土方 浦歌(ヴァンジ彫刻庭園美術館 研究員)

「Art」と「Nature」は、人為と自然という、全く共通するところのない対立する概念である。ところが、これらの翻訳語を輸入する過程で、美術と自然が示す日本固有の意味が欧米のそれと完全に一致しないということはそれほど問題にならなかった。明治初期の「自然」という語義の揺れを柳父章が考察している。人間が主体として確立した近代キリスト教社会では、「Nature」は神につくられた被造物であり、手を加えるべき客体であり、支配すべき素 材であった。日本人においてそれ以前の自然とは、「Nature」と共通する「山水」の意味もあったが、親鸞の「をのずからしからしむ」という言葉にある ように、「天命」でもあり、より深遠な「神韻」でもあり、本質的な「粋」でもあった。自然というのは完全には客体化できない、人間にとっては主客未分化の状態にあったと指摘されている[1]

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地図を書き換える

西川 美穂子 (東京都現代美術館 学芸員)

ここに日用品が組み合わされてできたランドスケープがある。そこには無名の鳥がいて、歩いたり食物をついばんだりする。吊るされたネットの間を行き来し、園芸用のホースを止まり木とすることもあるだろう。彼/彼女にとってそれは、羽を休めるにちょうど良い高さのやわらかく掴みやすい場所かもしれないから。
狩野哲郎は空間の中に取っかかりを見つけ素材を置いたりひっかけたりする。空間が潜在的に内包する「何か」に触れ、つなげていく。始めからある凸凹や穴を利用し、自然の力に従い、新しい穴を穿ったり無理な力をかけたりはしない。狩野はその場所にある様々な可能性に触れられるよう見えない関係性に線や色を添える。それらは空間に描かれたドローイングのように、作品としての曖昧な枠組みを提示する。その中で鳥は、狩野が描くドローイングの一部であると同時に、人間(作者にとっても鑑賞者にとっても)がコントロールすることのできない偶然性をもたらすものでもある異なる知覚を持つものが見ているかもしれない風景に気づかせる存在だ。

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チャボは優雅にホースをまたぐ

予兆の場の創造 / 近藤 由紀 (青森公立大学国際芸術センター青森 学芸員)

口を大きく開いて餌をねだる雛たちに絶えず餌を運ぶ親鳥は、必ずしも自らが生んだ子どもへの愛情から彼らを育てているわけではない。親鳥はある行動の結果現れた目の前で大きく口を開く、眼の大きな生物を「子孫」とみなし、それを育てるように生まれついている。だから時に卵がすり替えられ、自分より大きな異種の子どもがそこで口を開いていても、わが子と同様に何事もなかったかのように育て上げるのである。

狩野哲郎の作品タイトル≪自然の設計/Naturplan≫は、動物学者ユクスキュルの著作から引用したものであるという。あらゆる生き物は、それぞれの知覚をもっていて、その知覚によって都合のいいように情報を変換して世界を解釈し、それに基づいて行動している。例えば人間生活にとっては障害物である道を塞いだ倒木をモグラは快適な住処とみなし、アリはそれに食欲をそそられる。あらゆる生き物がそのような形、機能、器官を備えることとなったのは「自然の設計」によるものであり、それぞれの環世界で生きるためにあらゆる生き物はこの自然の設計の支配を受けて世界を知覚し、それに組み込まれた行動をしている[1]

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呼吸する環礁(アトール)—連なりの美学 / 難波 祐子(キュレーター)

モルディブの人々にとって馴染みの深い鳥、マイナ。狩野哲郎は、このマイナをインスタレーションに取り入れる。ホースやロープ、網など一見どこにでもある日用品を使ったインスタレーションは、実は、動物行動学や狩猟の知識、動物園や獣医師などへの取材に基づき狩野によって緻密に設計されたマイナにとって最適な「自然」環境だ。狩野の作り出した「自然」に身を置くことで、マレの人々にとってはあまりにも身近で意識することのないマイナと人との関係性を浮かび上がらせ、私たちを取り巻く自然環境、人間によって作り出された生活環境 について再認識させる。一方《島々の花輪》と題された新作は、花輪のように連なって浮かぶ珊瑚礁である「環礁」で構成されたモルディブをイメージして制作 されたドローイング連作である。対面の壁には、マスキングテープやステッカーなどでウォールドローイングも施し、もう一つの「自然」の風景が展開する。

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合わせ鏡の裏側

砂糖が好きな砂糖鳥

誰も見ずとも鳥は飛ぶ
誰も見ずとも鳥は眠る

鳥、小鳥、鳥いるところ

cikap, cikappo, cikapuni

Statement

(ステートメント/自筆テキスト)

気分あるいは態度としてはノマディックでありたい。 目的地はどこにでも定めることができるのに、ひとつに定める理由を探すことが苦手だった。目的地を定めるためのきっかけあるいは後押しが欲しくて今の作品制作のスタイル、そして展覧会というものがあった/あるのかもしれない。 個人として固定のスタジオを持っていないし、そこで制作されるべき自分の作品はいまのところない。 いつも展覧会の場所におもむき、滞在し、作品をつくる。 そして展覧会が終了すると作品であったものは元の要素に戻ってしまい、自立した作品として残ることはない。 そこに行かなければならない理由、そこにいてもいい理由。 少なくとも、自分の作品を生成し存在させるために僕はそこに行かなければならないし、そこにいてもいい。 僕は風景との許されたつながりが欲しいと願う。 僕は作品を作るためにその場所に居るのだし、その場所に居たいからその作品を作りたい。 展覧会は僕にとってまるで移動する仮設のアトリエのようなものである。 そして、次のアトリエ(=展覧会)が可能性にあふれた場所であることを期待し、いつだって確信している。 そしていつもあたらしい風景を生み出すことが可能だと考えている。

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Studying about something

何かのためのスタディ

理想のとまり木

ある小鳥が認識しうる「自然」の中から理想のとまり木を探し出すとせよ。
「自然」が小鳥の認識の限界量よりも大きい時、小鳥は全てのとまり木を試すことはできない。「自然」が小鳥の認識の限界量よりも小さい時、その中に存在するとまり木が理想であるかどうか確信することはできない。「自然」が大きくても小さくても理想のとまり木を探しているあいだには見つけることはできないのかもしれない。

ここに理想的な円柱形に加工された「小鳥のとまり木」がある。人間によって想像された「小鳥のとまり木」はいったいどの小鳥のための理想のとまり木になりうるだろう。もし世界から全ての小枝がなくなってしまっても、小鳥は「小鳥のとまり木」にとまるための理想の趾(あしゆび)を持つように進化するだろう。

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無名の鳥 / Anonymous birds

鳥を見ている。名前はあまり知らない。彼/彼女らが自分で名乗るわけでもないのだし、そもそも僕は共通の言語を持っていない。だからこそ、誤解が生まれるはずもなく、少なくともお互いにわからない存在であることだけは確かになる。理想的には今のところその鳥に名前を与えることを保留にしたままにしておきたい。

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大きなモビール

植物が鳥が場の可能性を可視化する。

既製品を使うことについて、ギャラリーではない場所を展示場所として見立てることについて。
人工物、自然物問わず、与えられた環境(=一種の自然)としてとらえる。
わかりやすい土地の文脈を拾うのではなくその場所にすでにあるものごとを拾うことで無意識に反映される。

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