Statement

(ステートメント/自筆テキスト)

気分あるいは態度としてはノマディックでありたい。 目的地はどこにでも定めることができるのに、ひとつに定める理由を探すことが苦手だった。目的地を定めるためのきっかけあるいは後押しが欲しくて今の作品制作のスタイル、そして展覧会というものがあった/あるのかもしれない。 個人として固定のスタジオを持っていないし、そこで制作されるべき自分の作品はいまのところない。 いつも展覧会の場所におもむき、滞在し、作品をつくる。 そして展覧会が終了すると作品であったものは元の要素に戻ってしまい、自立した作品として残ることはない。 そこに行かなければならない理由、そこにいてもいい理由。 少なくとも、自分の作品を生成し存在させるために僕はそこに行かなければならないし、そこにいてもいい。 僕は風景との許されたつながりが欲しいと願う。 僕は作品を作るためにその場所に居るのだし、その場所に居たいからその作品を作りたい。 展覧会は僕にとってまるで移動する仮設のアトリエのようなものである。 そして、次のアトリエ(=展覧会)が可能性にあふれた場所であることを期待し、いつだって確信している。 そしていつもあたらしい風景を生み出すことが可能だと考えている。

作品材料となる既製品や拾得物あるいはそれを展示する空間は人間にとってはあらかじめ意味や機能や価値などを持っているが、それらを人間以外の存在が知ることはない。
その空間や構成要素である既製品は必ずしも鳥のために設計されたわけではない。 しかしそれらが組み合わされ、ひとつのランドスケープとなったときに適当に放任された鳥はある種の想像力を持って空間に反応する。 人間にとっての意味や機能や価値から逸脱して組み合わせられたそれらのものは、私たちにとって違和感のあるランドスケープであるとともに、空間に描かれたドローイングのようなものなのかもしれない。
私たちには疑うべくもなく絶対的に他者である植物や鳥の思考も身体感覚もトレースすることはできないし鳥が鳥目であること、鳥目を鳥の認識で確認することはできないけれど、想像してみることはできる。 植物の、鳥の、その空間でのふるまいをじっと見ることによって。

無名だけれどすてきな雰囲気をもう一度思い出すための方法、あるいはその瞬間を目にするための方法を探す。 たとえば私は空間に触れながらそこにしかない作品としての曖昧な枠をつくる。枠の中にはさまざまな偶然性(植物の成長や鳥が歩くこと)を内包して注意深く見守る。 合理的な方法ではたどりつく事が困難なものごとのすてきさを目にするために「何かについてのスタディ」をつづける。 予定された調和の少しだけ外側にすてきな瞬間はいつもある。


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