口を大きく開いて餌をねだる雛たちに絶えず餌を運ぶ親鳥は、必ずしも自らが生んだ子どもへの愛情から彼らを育てているわけではない。親鳥はある行動の結果現れた目の前で大きく口を開く、眼の大きな生物を「子孫」とみなし、それを育てるように生まれついている。だから時に卵がすり替えられ、自分より大きな異種の子どもがそこで口を開いていても、わが子と同様に何事もなかったかのように育て上げるのである。
狩野哲郎の作品タイトル≪自然の設計/Naturplan≫は、動物学者ユクスキュルの著作から引用したものであるという。あらゆる生き物は、それぞれの知覚をもっていて、その知覚によって都合のいいように情報を変換して世界を解釈し、それに基づいて行動している。例えば人間生活にとっては障害物である道を塞いだ倒木をモグラは快適な住処とみなし、アリはそれに食欲をそそられる。あらゆる生き物がそのような形、機能、器官を備えることとなったのは「自然の設計」によるものであり、それぞれの環世界で生きるためにあらゆる生き物はこの自然の設計の支配を受けて世界を知覚し、それに組み込まれた行動をしている[1]。
狩野の作品は動植物が取り入れられることでも知られている。2004年の最初期の作品≪発芽―雑草/Weeds≫から植物が使用され、作品の中にその生育の過程が取り込まれている。2009年の≪それぞれの庭/Respective garden≫からは、そこにチャボが加わり、作品をより有機的に変化させる偶然性が増していった。≪自然の設計≫は、これ以降のシリーズ作品につけられているタイトルでもある。狩野はこの鳥や植物を作品に取り入れようとしたきっかけについて、空間の機能や価値や意味について学んでいたときに、それらは全て基本的に人間のためであるという事実、そして例えばコンクリートの「破損」である裂け目は人間の環境にとってのマイナスの要因であるが、植物にとって「生育の場」になるという事実に気付いたことを挙げている[2]。こうしてこれらは狩野の作品において既存の空間の異なる意味や価値を見出すための媒介として導入された。
狩野のインスタレーションにおいては、ネットやポールといったホームセンターなどで気軽に手に入るような素材が集められ、場に構成されていく。色彩豊かなそれらが空間に広がる様子は、あたかも三次元の空間に施されたドローイングのようでもある。この中にその動植物が放たれる。作品の中に置かれたリンゴは会期中に腐り、落下し、粘性の高い汁を滴らせ、展示物としては「相応しくない」姿をさらす。放たれた鳥は、当初は美しく「展示」されたこうしたリンゴや種子を餌としてついばみ、その綺麗な円錐状の山を崩し、その食した結果としての排泄物を散らす。展示物としての植物や種子は、そんなことはお構いなしにある条件が来たら発芽し、そしてまたその鳥についばまれたりする。そして時々あまりに散乱したかのように見えたその場は、作家の手によって掃除され、形を整えられ、インスタレーションとして保たれる。ある完成形を持っていたかのように見えたインスタレーションはこうして会期中にそれぞれの主体の世界の中で、互いに関わりあいながら、一方で干渉しあわないまま共存することとなる。
ところで狩野はこうした偶然の展開を生む作品の中の動植物を「完全なる他者」とみなし、「コントロールできないもの」としているが[3]、おそらくそれは単純に不測の事態を生むもの=作品の状態をコントロール不可能にするものとみなしているわけはないだろう。それがどのような方法であれ自然の物事に対して物理的/精神的な働きかけを行い、なんらかの「コントロール」を施し、自然すなわち混沌にある特殊な秩序をもたらすことが作品成立の契機となろう。おそらくここでいう「コントロールできないもの」とは、その他者たちが無秩序に作品を変容させていくということではなく、その作品の中にいる他者たちの知覚世界や環世界を作家がコントロールできない/しないことであろう。すなわち作者の想像力を超えたところに在る、作家の思考の地平を超える何かをもたらす存在という意味での「完全なる他者」である。
狩野が今回のプログラムテーマ「吃驚」について、「『びっくりは僕ではなく外側から与えられる』ための舞台を作る」[4]という言葉で受容していることから、作家が作品として作り出すものはその枠組みということになるだろう。それは作家によって作られた任意の環境といえるのかもしれない。だが作品は変化を内包した常に開かれた状態にある。それは言いかえれば新しい体験の場、新しい想像を獲得する場として作品が作られているということであろう。
このように鳥や植物は作品として設定された世界を「徹底的に理解しないもの」その「分からなさ」の象徴として存在する。作家も鑑賞者も「理解不可能」な存在が、自ら「理解していると思っている」世界を否定し続けることで、世界は一度白紙に戻される。「それぞれの新しい体験は、新たな印象に対する新たな態度を引き起こす」[5]とは、前述のユクスキュルの言葉だが、作品を構成する日用品の名が剥脱され、作品としての意味が解体されていくのをみることは、それが何かとして新たに認識あるいは名付けられた瞬間に立ち会うのと同じことなのかもしれない。
ところで今回は会場管理の問題もあり、ここ数年狩野の作品にいた鳥が不在であった。そのことは作家にとっては不本意なことであったかもしれないが、鳥がいないことは別の印象と鑑賞体験をもたらしたように思えた。確かに鳥は、その存在故に見る者に観察を促す。だが時に鳥の存在感が強すぎて、植物もインスタレーションも全て鳥のためにあるようにすら思えてしまうのだ。しかし今回はその鳥がいないために鑑賞者は、より中立的な立場に置かれた。不在の鳥を想像することで作られたインスタレーションを鑑賞するためには、人々は作品の中をより自由に/不自由に歩き回ることとなった。しゃがんだ先にある景色、覗いた所にある狭間、飛び越えなければならない障害物は、目の前の鳥という特定の存在ではない視点を体験的に鑑賞者に与えた。
また今回は鳥に焦点を強要されることがなかったことで、鳥にとっての○○という名すらつけられない茫漠さが作品に与えられ、空間におかれたモノたちはより抽象的な色や形として広がり、作品の響き合うような連鎖的な関係性がより繊細にあらわれた。空間の何らかの特性をきっかけに構成されたギャラリー内部のインスタレーションは、上部の窓から野外ステージへとつながり、それらは外の風景と地形をきっかけにさらに宿泊棟の屋根へと延びていった。この「つながる」ということも狩野の作品では重要な要素でもある。建築に寄り添いながら広がるそれらは、構造的であるが構築的ではなく、理論や秩序ではなく即興的かつ経験的な方法によって、微妙なバランスでつながっていく。それらはさらに外界の動植物の訪問や自然の変化によって連鎖的に歪み、たわみ、豊かな連鎖と繊細な均衡の姿を見せることとなった。
狩野はこうした連鎖を通常の関連性を失わせることで示そうとする。それはインスタレーションが見たこともないような形状をしていたり、見たこともないような素材によって作られていたりするのではなく、我々が日常的に使うもののうち、ある特定の目的のために作られた物が使用されていることとも関連しているように思われる。つまりそのことが「見たこともないような」という、それすらある種人間に属する夢想を排除するとともに、目的がはっきりしているものだからこそ、その目的とは何の係わりも持たぬものたちが、その目的とはかけ離れた働きかけをすることが強調されるのである。それは通常の回路を切断し、何か別の回路とつなぎ合わせようとするようなことなのかもしれない。こうして作品としての≪自然の設計≫は、何ものかが認識されるその予兆に満ちた開かれた「場」となるのではないだろうか。狩野はそれを積極的に提示するのではなく、それを獲得するための観察の場あるいは待機の場を設定する。それは自然界で見られる均衡を閉じた形で再現する抽象的なアクアリウムのようにもみえた。
(近藤由紀「予兆の場の想像」、アーティスト・イン・レジデンス・プログラム 2010 / 秋『吃驚』、2011年3月、p. 46 – 52より)
[1] ユクスキュル/クリサート『生物からみた世界』、日高敏隆・羽田節子訳、岩波文庫、2005年。(Jakob von UEXKÜLL/ Georg KRISZAT, Streifzüge durch die Umwelten von Tieren und Menschen, 1934; 1970.)
[2] 狩野哲郎、2010年7月、Webサイト「cat’s forehead」のメールインタビューより。
[3] 2010年11月21日狩野哲郎レクチャー「何かについてのスタディ」での発言。
[4] 2010年9月狩野が筆者に提出したプランシートより。
[5] ユクスキュル/クリサート『生物からみた世界』、日高敏隆・羽田節子訳、岩波文庫、2005年、97頁。