庭をめぐれば / 土方 浦歌(ヴァンジ彫刻庭園美術館 研究員)

本展は、ヴァンジ彫刻庭園美術館の開館10周年を記念して、今という地平を切り開く19組の作家による、「庭」という場所にまつわる表現をとりあげるものである。
当館は、イタリアの彫刻家ジュリアーノ・ヴァンジの個人美術館として2002年に開館し、それと同時に、200品種の四季咲きのクレマチスが庭園の外周と クレマチスガーデンに植えられた。加えて、クロッカスや原種シクラメン、薔薇などの多種多彩な植栽が手入れされており、四季の変化を見せている。これらの 植栽は、季節の移ろいを愛でながら散策を楽しむ、日本人の嗜好に見合うように構想された。美術館ならびに庭園設計者によれば、近代の美術館では従来ひとつ にまとめられていた機能は各建物に分散され、箱根連山に伸びる眺望、橋立のような展示デッキ、楠の木のある小高い丘、噴水彫刻の丸池、カナールの水辺、 刻々と変化するこれらの情景を曲がりくねって一周する小径がつないでいる。見方を変えれば、美術館も庭園の一要素でもあるこのプランは、日本古来の回遊式 庭園の利点を取り込んだものである。

「Art」と「Nature」は、人為と自然という、全く共通するところのない対立する概念である。 ところが、これらの翻訳語を輸入する過程で、美 術と自然が示す日本固有の意味が欧米のそれと完全に一致しないということはそれほど問題にならなかった。明治初期の「自然」という語義の揺れを柳父章が考 察している。人間が主体として確立した近代キリスト教社会では、「Nature」は神につくられた被造物であり、手を加えるべき客体であり、支配すべき素 材であった。日本人においてそれ以前の自然とは、「Nature」と共通する「山水」の意味もあったが、親鸞の「をのずからしからしむ」という言葉にある ように、「天命」でもあり、より深遠な「神韻」でもあり、本質的な「粋」でもあった。自然というのは完全には客体化できない、人間にとっては主客未分化の 状態にあったと指摘されている[1]
このような自然との関わり方は我が国の庭園作法に顕著にあらわれている。しばしば日本庭園は、「風景式庭 園」に分類され、西欧の、とりわけベルサイユ宮殿の庭園を例とするような視覚的に統御され体系づけられた「整形庭園」と対比される[2]。  もともと、「ニハ」という日本語の由来は、原始社会において祭祀が行われ、神様を呼び込むために平らにならされた土地という説がある。庭に関する最古の記 述は『日本書記』にあり、蘇我馬子が「庭中小池」を開き島大臣になったことを伝えている。律令時代から貴族階級は、奈良の盆地の中に人工的な自然をつく り、祭礼や遊興の場としていた。花見の慣習は貴族階級だけでなく「春山入り」という民間行事にまで浸透していた。平安時代後期に書かれた最古の庭づくりの 指南書『作庭記』では、古代では神体であった石の立て方が重要視されており、「乞はん」と「えうじ」に従い、つまり本来の地形や石の姿が求めるものに従い ながら庭づくりをせよと説いている。また、この石の立て方には、「生得の山水をおもはえて」本来の山水を想定して行う一方、水を使わずに池や海をあらわす 「枯山水」では、石は物質を超えた象徴として置かれた。また、名勝の景観一部を取り込んだ縮景、周辺の景色を取り込んだ借景などは、即物的な景色から広大 な空間が暗示された。抽象的な教理問答を好んだ禅宗などの仏教はもちろんのと、また石を立てるのに様々な禁忌があった点では神教の、そしてその配置には陰 陽五行の道教の影響が指摘されている[3]

日本庭園の持つ象徴性や、相互浸透する人為と自然の関係は、モダニズムの作家たちのなかでひと つ表象文化として認知された。イサムノグチは、庭園を「空間の彫刻」としてとらえ、回遊式日本庭園に入るとすべての物が「相関的な価値」にあり、岩石の永 遠性と植物の無常性の自然に基礎を起こしていると記述している。彼自身の環境彫刻への関心は、ユネスコの日本庭園やモエレ沼公園といった作品にあらわれて いる。岡本太郎は、日本庭園の借景における「自然と反自然的要素を対立のまま結合する技術」が近代芸術の課題に通じる弁証法であると評価する一方、「感傷 的に自然によりかかる精神」が形式主義に堕したと指摘している。岡本太郎は、庭をすべての時代にたえる古典とみなしながらも、彼の芸術観は反自然、自然に 対し作用を起こす気概がもとになっていた。
三嶋由紀夫は、無数の視点の移行によって、無数の世界観に接することのできる、日本の回遊式庭園の構 造は、時間の流れを庭に取り入れたものであると形容した。彼岸は此岸になり、見られた庭は見返す庭になり、庭をめぐる時間は可逆性を持ち、庭をめぐる視点 は個人の内部の体験によるものになる[4]。  このような言説は同時代のアースワークやサイトスペシフィックアートの批評言説と共通する部分もあるだろう。アメリカの美術評論家のロザリンド・クラウス は、日本の庭を「風景と建築の両方」 [5]と 述べ、従来の西欧文化で考えられなかった複合的な要素をその中に見出した。クラウスによれば、ロバート・スミッソンの山や湖に広がる作品は、風景に非 風景を加算したものであり、既に彫刻やインスタレーションの枠に収まらない20世紀の折衷的な造形物を、複数の軸における相関的な位置付けよって理解しよ うとしていた。このように、外部環境の偶発性を取り込み、主体と客体が重なりあう日本人の庭園観は、近代の造形芸術の閉塞をその領域外のところから打開す る鍵としてみなされていたように思われる。
また、近年ランドスケープデザインの一環として、生態系への関係性を見据えた一角を都会の景観の中に 作り出す事例が増えている。人間にとってピクチャレスクではない自然景観を意図的に仕掛けるビオトープ庭園の作例である。元々これは近代の重化学工業の跡 地に、植生を回復する運動から起こったものであり、自然との持続可能(サスティナブル)な関係性のうちに、循環型社会の規範を求めるものである。これは、 人間が一方的に自然を搾取し続ける一極型の資本主義へのアンチテーゼである。マルクス主義の用語を使えば、人の手による労働(作為)は、人間と自然との間 の物質代謝(Stoffwechsel)を介在しているのだが、それはまた、人間が作り出した生産物を、どのように自然界に還元できるのかという、別方向 の代謝が問題になっている。人間と自然との関係は、新たな局面を迎え、それによって、我々は庭を、最も身近な自然として、ベランダのプランター野菜に至る まで、日々の暮らしがこの循環に組み込まれていることを意識する場になりつつあるだろう。

さて、今日、未曽有の天変地異の前には、人間 が長い年月かけて作りあげた巨大な機構は、いかにもろく崩れ去り得るということを、我々は実感として持ってしまった。また、情報化社会の巨大なネットワー クは日々更新され続け、私たちを絶え間なく様々な次元のヴァーチャルな関係性へと結び付ける。庭の中の小さな自然は、飼いならすことが可能なように見え て、我々の脅威を抱かせない範囲で予測不能性に満ちている。ただ強度だけでない、日常の新たな確かさをもとめて、この幾通りもの開かれた系をつなぎとめ る、小さな絆が見出されようとしているかのようだ。

ここに挙げる出品作家は、世界的な巨匠から若手・中堅作家まで、世代も活動拠点も様々である。ここでは、出品作を中心に紹介することにする[6]

草間彌生(1929年–)は、1960年代にニューヨークで世界的な評価を確立した前衛芸術家である。長野県の広大な敷地を持つ育種家に生まれ育った彼女 は、幼いころから草木や花に親しみそのスケッチを描いていた。また、彼女は幼いころから、水玉や網目模様の反復、増殖で対象物の表面を埋め尽くす、病理的 なオブセッションははじまっていた。草間はオルデンバークよりも一年早く、ソフトスカルプチャーといわれる、合成素材の立体物の制作をはじめている。新作 《明日咲く花》にみられるように、彼女の花の立体物はどこかユーモラスで、ひとつひとつが個性を持った人間のようだが、その表面には、作家の特徴でもあ る、不穏な水玉の反復模様で覆われている。際立った生命力をもってたちあらわれる彼女の作品は、物質的な限界を超えてその先に行こうとする、命の営みへの 希求がみてとれるようだ。

古屋誠一(1950年–)は西伊豆生まれ、オーストリアを拠点に活動している写真家である。『カメラ・オース トリア(Camera Austria)』創刊に参画し、展覧会プロジェクトの推進、出版デザイナーとして活動は多岐にわたるが、1989年から亡き妻を扱った『メモワール (Mémoires)』写真集の一連の試みが知られている。シリーズやタイトルのために撮影するのではなく、日常生活の中で一瞬のひらめきを感じた時に、 ただ撮るというのが彼の写真に対する基本的な姿勢である。こうして保管されたフィルムの中から選び手製本として編まれる過程のなかで、彼は過去と向かいあ う。グラーツの自宅の庭で生命体が織りなす小さな変化を切りとりながら、彼は鋭いまなざしで、その時間の向うにある大きな循環に焦点をあわせているよう だ。自ら種を蒔いた植物の成長や、動物たちの変遷を見つめる時間は、どこか他律性に委ねられた彼の写真の営みと重ねられるように思われる。

イケムラレイコ(1951年–)は、1972年にスペインに渡り、現在ベルリンとケルンを拠点に活動している。彼女の立体作品は、魂の奥深くから、自己と 他者に共通する存在の根源的なかたちをたぐりよせ、テラコッタや粘土など可塑性のある素材でそれをつかみだそうとする。出品作《うさぎの柱》は対の作品で あり、ブロンズに明るい色のパティナをかけて仕上げられている。1990年代初頭から彼女の表現は転機を迎え、それまでの記号的でにぎやかな画面から意味 を排除して、草木や動物の一部のような原初のかたちを求めはじめ、それはやがて、よく知られた少女の姿になっていった。また、手による身体感覚を重視する ため、制作において粘土や陶土を用いはじめたのもこの頃である。ウサギの耳の開き具合、そして高さも微妙に異なるこの2点の作品は、ひとつは丘の上に、ひ とつは展示棟のピロティーに非対称に配され、空間に生き生きとした抑揚を与えている。

日高理恵子(1958年–)は、地面から見上げた 木の枝をモノクロームの線で描きながら、空との距離を画面のなかで探っていく。麻紙と岩絵の具という日本画の材料を用い、ざらざらとした硬質な質感をみせ る表面により、現実的には手に触れることのできない対象の物質性が我々の目の前に晒される。描かれた枝は、逆光の写真のように平坦でありながら、その奥に ある無限の空の高さを暗示させる。細い木の芽の先まで一枝一枝が、白い背景にくっきりと浮かびあがり、その先には茫漠とした空間が広がっている。出品作 《空との距離IV》は、まるで大樹の下から空を見上げるかのように、階段脇の吹き抜けに様々な高さで展示されている。

奈良美智 (1959年–)は、尖った目をした風貌の子どものイメージで知られる、国際的に評価の高い画家である。目を閉じて夢想しているかのような子供像は、無垢 でありながら背後に複雑な感情を隠しており、一見可愛らしくみえる外見と相反するかのような、精神性が追求されている。彼は、少年のような夢想の中に表現 のモティーフを見出すが、それは自身と向きあいながら過去の体験の堆積をさかのぼり、感情の源流をそこからたぐりよせる旅のようなものである。表層におい てはデフォルメされ単純化された子供の顔があっても、実際の制作過程においては、幾つもの色面がレイヤーとしてその下に重ねられており、それが彼の作品に 重層的な奥深さを与えている。

三嶋りつ惠(1962年–)は、1996年からヴェネツィアのムラーノ島のガラス工房に通い、伝統的な ヴェネツィアンガラスに革新をもたらす造形を生み出している。彼女は、無色透明なガラスにこだわり、その形の着想は、植物の形や自然現象、考古学遺物など に由来する。ガラスに新たな命を吹き込む作業過程は、千年以上伝承された伝統技法の職人たちとのコラボレーションであり、また高温に溶けたガラスの成形は 様々な条件に左右され、多くの偶発性に委ねられる部分がある。彼女は、むしろ自己の意志で統御する部分を縮小することによって、逆に他者との関係性の中か ら、作品にそれ以上の効果をひきだそうとする。球根の形から着想をとられた《BULBO》は庭園に設置され、成形時のはちみつ状のガラスの塊の勢いそのま まに、地面から伸びあがり、自然光を集めそれを空気の中に溶かし込んでいる。

村瀬恭子(1963年–)は、1990年からドイツの デュッセルドルフで活動する画家であり、水の中に浮遊し充満していくような身体感覚を画面の中にあらわそうとする。中央に描かれる少女の像は個性をかき消 され、その髪や腕や衣服の一部は周囲の物象に流れだし一体化している。制作過程の中で、登場する少女に自分を重ね合わせ、そしてまたそれをつきはなして客 観化して見る、二つの視点が入れ替わり主客を転置させながら作品はできあがる。出品作《水やり》は、伸び行く植木鉢の植物に水をやる少女の手のじょうろ と、つながる少女の髪、画面上ですべてが有機的に連結し、これらを俯瞰する作家の目線がある。通路に設置された新作のウォールドローイングでは、少女のモ ティーフや庭の木の擦り出しを出発点とし、刻一刻視界が変わるごとに、連続し反転する世界がたちあらわれる。

丸山直文(1964年–) は、ステイニングという生地に布に絵の具を染み込ませる技法によって、相反する二つの世界の浸透しあう境界に着目してきた。画面いっぱいに茫漠とうかぶ色 面は、ある視点から水の反射や木の影に変わり、奥行のある絵画の世界をたちあげる。ステイニングという方法を用いるのは、絵の具の染み込む偶発性にある部 分を委ね、また絵の具の物質性や手の痕跡を消し去るからである。描いては消すことによってできた余白に、滲みゆく空と水の境界がせめぎあっている。背景に 鮮やかな色を置き、近景に弱い色を置く配色によって、通常の遠近感を狂わせるような効果も作家の意図するところである。

須田悦弘 (1969年–)は、精緻な手作業による、迫真的な植物の木彫作品を制作している。また、彼は木を彫るだけでなく、それを設置する空間も同等に重要視し、 作品を思いもよらぬ場所に遊び心を持って配置するインスタレーションを行っている。たまたまデザイン学科在学中に木で彫ったスルメに手ごたえを感じ、それ 以後木彫をてがけるようになる。彼が植物をテーマにするのは、与えられた環境に自身を適応して生きている様子が、彼の制作スタンスと重なるからという。新 作の《テッセン》、ひと束の《雑草》は、既にある部屋の空間の中にひっそりと溶け込み、それでも意表をつくようなドラマを伴いながら我々の前にあらわれ る。

小粥丈晴(1969年–)は、現実に存在しない、どこにもない場所を探しながら旅を続け、その場所を見るために作品を制作する。作 品を制作するための道程もまた、彼の中での旅となり、他者を巻き込みながらその物語を完成させていく。展示棟のスポットが当たり白く輝く《泉》は、陶器で できた泉のオブジェであり、表面に張られた水を器で汲んで切り株に注ぎ込むことができるようになっている。《泉への道》プロジェクトは、泉の形の陶器のハ ンドルを回すと音楽が鳴り、実際の泉のように水が流れる。この作品は2004年に発表されて以来、東京、静岡、長崎など各地を旅して、観者と共にその音を 奏で続けた。

杉戸洋(1970年–)は、具体的な情景と幾何学的なモティーフを相関させながら、柔らかい色彩で夢の中の世界を描き出 す。ひとつの作品世界の部分は、次の作品世界へとつながっていき、次々と生み出される絵画のなかで連関していく。2005年《the dark mirror》は、当館の庭園の池の形から着想を得た。前景に描かれたカーテンなどの仕切りは、夢と現実を隔てる距離として機能しているかのようだ。情緒 的な色調とは対照的に、彼の作品は構築的であり、大画面の新作《snake and bird》における幾何学的な形にもそれがあらわれている。

木村友紀(1971年–)は写真や映像を組み合わせたインスタレーションによって、現実から切り離されたイメージの表層を問題にしている。《new garden》の天地逆さまの不自然な画像は、視覚のトリックのようにも見え、幻想的なひとつのヴィジョンを生み出している。彼女の作品は、写真を撮るだ けにとどまらず、イメージを選択し組み合わせ、インスタレーションと提示するまで、あるひとつのコンセプトによって導かれている。画像データが氾濫する今 日、彼女は写真をものとして扱い、現実の物質と対応させることで、逆にイメージの無意味性を訴えている。これらのオブジェを連結するのは、言葉にならない 内なる物語であり、彼女が提示したいのは、むしろこのような非物質的な精神性のようだ。

川内倫子(1972年–)は、日常の暮らしのな かの、人々や物事のキラキラとした輝きをカメラのファインダーに収める。彼女の作品には、水滴や木漏れ陽、濡れてきらめく卵や果物の種などの、光る粒々が モティーフとなっているものが多い。このような、すぐに消えてしまいそうな、はかない一瞬の出来事を、暖かく丁寧なまなざしで写真家は追い続ける。 《Cui Cui》シリーズは、フランス語の雀の鳴き声にそのタイトルが由来し、近親者の死と誕生の小さなドラマのなかに、普遍的な命のサイクルを重ねているように 思える。

長島有里枝(1973年–)は、日常の風景をスナップのように撮影しながら、自分と外界との関係の接点を探っている。暗い背景 に浮かび上がる名もない花を撮影することで、彼女は自分と向かいあう。作家の内側の世界と外側の世界で同時並行する変化が、ちょうど交差する一瞬を求めて シャッターが切られるとき、被写体はある意味、その思考の一部になっているといえるかもしれない。祖母が撮った花の写真を発見したことがきっかけで、彼女 は2007年のスイスのレジデンスプログラムにおいて、息子と対話しながら庭の花々を撮影した。彼女が一貫して追求するのは家族のテーマであり、撮るとい う行為に時空をへだてた絆を求めているかのようだ。新作はクレマチスガーデンの植生を撮影したものである。

植原亮輔(1972年–)と 渡邉良重(1961年–)は、1995年に宮田識によって創立されたD-BROSのアートディレクションをつとめ、日常生活の中に自由な想像力を羽ばたか せるようなプロダクトを提案している。一貫して紙の質感と質量にこだわる2人は、印刷媒体やアナログな素材を用い、それは記憶の底にある懐かしい情景を思 い起こさせる。「Hotel Butterfly」と題されたシリーズでは、架空のホテルの世界観によって統一された、しおりや便せんなどの文房具が展開されている。本インスタレー ション《時間の標本》では、古い本のページから飛び立とうとする紙製の蝶が、日常から非日常の間の一瞬の跳躍をみせている。また本を開く瞬間と閉じる瞬間 が対比された映像、飛んでいく蝶の影絵など、異なる時間軸のものが様々な媒体であらわされている。

竹川宣彰(1977年–)は、日常の 向こうにある大きな構造の一片を、図面や模型など、美術の領域外のありふれた造形物を利用して具現化する。新作《構える渡り鳥日誌》は、遠目から見ると 「構」の漢字のつくりの部分の立体物である。その隙間を欄間彫刻のような彩色浮彫りがはめこまれていて、そこにはシーシェパードや、煙をあげる福島原発、 セシウムの元素モデルなどのモティーフがあらわれている。陶器でできた鳥小屋と鳥たちの造形物は、一見平和そうな風景だが、その奥には歴史や社会に対する 風刺がこめられているようだ。

狩野哲郎(1980年–)は、実際の鳥や植物を作品に用い、彼らの秩序にその場所を委ねることによって、 それらの関係性からできる新たな風景を立ち上げる。新作《自然の設計/Naturplan》では、荷物縛り用のゴムひもや電気コードなどが危ういバランス で接続されている。果物が腐敗したり、鳥が来てそれをついばむことによって、この全体のバランスが崩れ、時間とともに風景は変化していくことになる。ま た、窓の外には赤い鳥よけネットの三角形が、空間にドローイングを描くように伸展し、形の連続をみせている。日常的な工業製品の機能は、動植物たちにとっ ては別の意味を持つものへと変わり、複数の主体が共存する空間を仕掛けることで、作家は、予定調和の外にある出会いの一瞬を待ち構えている。

レインボー岡山(1962年–)は、夢を七色に輝く虹に託して、人と出来事を色鮮やかな方法でつなぐ架け橋になろうとする。さとうりさ(1972年–) は、小さな物語の登場人物である「こはち」を介して、コミュニケーションのあり方に言及する。《こはち古墳(1:17)》は、その無表情のシンプルな線が 様々な感情を喚起する。別頁のワークショップ報告(pp. 111-3)に詳しく述べられているが、彼らのパフォーマンスは、庭という場所で人と人との絆を紡ぎ出している。

彼らは進んで、表現に他律性が支配する領域を 残し、それを取り込むことで、別の位相を持つ関係性の中に自らを組み込もうとする。[7]  まるで、実りや芽吹きを辛抱強く待ち続け、自然の論理を受け入れながら、自然にはたらきかける庭師のように。そして、日常の延長のままに庭に出れば、草や 木や石、鳥や小動物などの営みに、広大な生態系のシステムの一片や、生成消滅する生命の循環のほんの断片を見出すだろう。あるいは、刻々移り変わる風景と 出会う行程のなかで、記憶の底からたぐりよせた自らを観照し、時空を旅する。
そのとき庭は、果てのない庭、終わらない庭となって未来に続いていく。

土方 浦歌(ヴァンジ彫刻庭園美術館  研究員)


[1] 柳父章『翻訳の思想』平凡社、1977年、p. 23。
[2] 18世紀にはイギリス、ドイツで風景式庭園が普及したが、エマソンの自然論にみられるように、自然は完全に客体化されていた。
[3] 重森完途「流派の庭」『日本の庭 続・作庭編』毎日新聞社、1983年。
[4] 三島由紀夫「仙洞御所」1968年 『仙洞御所(カラー宮廷の庭)』淡交社、1977年。
[5] ロザリンド・クラウス「展開された場における彫刻」『反美学―ポストモダンの諸相』(ハル・フォスター編)勁草書房、1987年、p. 79。
[6] 本展出品作家ではないが、杉本博司(1950年–)による併設のIZU PHOTO MUSEUMの坪庭について触れることも重要であるように思われる。2009年の開館に際し、内装のリノベーションと二つの坪庭の設計を行った。小田原近 郊にある根府川石を選んだ作業過程や、自然に導かれかれる石組みの実感を作家は自らの「作庭記」に書き残している。おそらく前述の平安期の「作庭記」がそ の前提にあったかと思われる。
[7] 長谷川祐子氏は、遊戯的なポストモダンの反動として、ユートピア的な理念は「機能性を召還」し、これはまた各領域を対話し横断する「関係性の創出」に向 かっていると述べている。(『Space for your future』東京都現代美術館、2007年、pp. 138-149。)

(土方浦歌「庭をめぐれば」、ヴァンジ彫刻庭園美術館開館10周年記念展「庭をめぐれば」 カタログ、2012年、ヴァンジ彫刻庭園美術館 / NOHARA、p. 93 – 97より)