庭をめぐれば / 土方 浦歌(ヴァンジ彫刻庭園美術館 研究員)

「Art」と「Nature」は、人為と自然という、全く共通するところのない対立する概念である。ところが、これらの翻訳語を輸入する過程で、美術と自然が示す日本固有の意味が欧米のそれと完全に一致しないということはそれほど問題にならなかった。明治初期の「自然」という語義の揺れを柳父章が考察している。人間が主体として確立した近代キリスト教社会では、「Nature」は神につくられた被造物であり、手を加えるべき客体であり、支配すべき素 材であった。日本人においてそれ以前の自然とは、「Nature」と共通する「山水」の意味もあったが、親鸞の「をのずからしからしむ」という言葉にある ように、「天命」でもあり、より深遠な「神韻」でもあり、本質的な「粋」でもあった。自然というのは完全には客体化できない、人間にとっては主客未分化の状態にあったと指摘されている[1]
このような自然との関わり方は我が国の庭園作法に顕著にあらわれている。しばしば日本庭園は、「風景式庭園」に分類され、西欧の、とりわけベルサイユ宮殿の庭園を例とするような視覚的に統御され体系づけられた「整形庭園」と対比される[2]。  もともと、「ニハ」という日本語の由来は、原始社会において祭祀が行われ、神様を呼び込むために平らにならされた土地という説がある。庭に関する最古の記 述は『日本書記』にあり、蘇我馬子が「庭中小池」を開き島大臣になったことを伝えている。律令時代から貴族階級は、奈良の盆地の中に人工的な自然をつく り、祭礼や遊興の場としていた。花見の慣習は貴族階級だけでなく「春山入り」という民間行事にまで浸透していた。平安時代後期に書かれた最古の庭づくりの 指南書『作庭記』では、古代では神体であった石の立て方が重要視されており、「乞はん」と「えうじ」に従い、つまり本来の地形や石の姿が求めるものに従いながら庭づくりをせよと説いている。また、この石の立て方には、「生得の山水をおもはえて」本来の山水を想定して行う一方、水を使わずに池や海をあらわす 「枯山水」では、石は物質を超えた象徴として置かれた。また、名勝の景観一部を取り込んだ縮景、周辺の景色を取り込んだ借景などは、即物的な景色から広大 な空間が暗示された。抽象的な教理問答を好んだ禅宗などの仏教はもちろんのと、また石を立てるのに様々な禁忌があった点では神教の、そしてその配置には陰陽五行の道教の影響が指摘されている[3]

日本庭園の持つ象徴性や、相互浸透する人為と自然の関係は、モダニズムの作家たちのなかでひとつ表象文化として認知された。イサムノグチは、庭園を「空間の彫刻」としてとらえ、回遊式日本庭園に入るとすべての物が「相関的な価値」にあり、岩石の永 遠性と植物の無常性の自然に基礎を起こしていると記述している。彼自身の環境彫刻への関心は、ユネスコの日本庭園やモエレ沼公園といった作品にあらわれて いる。岡本太郎は、日本庭園の借景における「自然と反自然的要素を対立のまま結合する技術」が近代芸術の課題に通じる弁証法であると評価する一方、「感傷的に自然によりかかる精神」が形式主義に堕したと指摘している。岡本太郎は、庭をすべての時代にたえる古典とみなしながらも、彼の芸術観は反自然、自然に対し作用を起こす気概がもとになっていた。
三嶋由紀夫は、無数の視点の移行によって、無数の世界観に接することのできる、日本の回遊式庭園の構 造は、時間の流れを庭に取り入れたものであると形容した。彼岸は此岸になり、見られた庭は見返す庭になり、庭をめぐる時間は可逆性を持ち、庭をめぐる視点 は個人の内部の体験によるものになる[4]。  このような言説は同時代のアースワークやサイトスペシフィックアートの批評言説と共通する部分もあるだろう。アメリカの美術評論家のロザリンド・クラウス は、日本の庭を「風景と建築の両方」 [5]と述べ、従来の西欧文化で考えられなかった複合的な要素をその中に見出した。クラウスによれば、ロバート・スミッソンの山や湖に広がる作品は、風景に非風景を加算したものであり、既に彫刻やインスタレーションの枠に収まらない20世紀の折衷的な造形物を、複数の軸における相関的な位置付けよって理解しようとしていた。このように、外部環境の偶発性を取り込み、主体と客体が重なりあう日本人の庭園観は、近代の造形芸術の閉塞をその領域外のところから打開する鍵としてみなされていたように思われる。
また、近年ランドスケープデザインの一環として、生態系への関係性を見据えた一角を都会の景観の中に作り出す事例が増えている。人間にとってピクチャレスクではない自然景観を意図的に仕掛けるビオトープ庭園の作例である。元々これは近代の重化学工業の跡地に、植生を回復する運動から起こったものであり、自然との持続可能(サスティナブル)な関係性のうちに、循環型社会の規範を求めるものである。これは、人間が一方的に自然を搾取し続ける一極型の資本主義へのアンチテーゼである。マルクス主義の用語を使えば、人の手による労働(作為)は、人間と自然との間 の物質代謝(Stoffwechsel)を介在しているのだが、それはまた、人間が作り出した生産物を、どのように自然界に還元できるのかという、別方向の代謝が問題になっている。人間と自然との関係は、新たな局面を迎え、それによって、我々は庭を、最も身近な自然として、ベランダのプランター野菜に至るまで、日々の暮らしがこの循環に組み込まれていることを意識する場になりつつあるだろう。

さて、今日、未曽有の天変地異の前には、人間 が長い年月かけて作りあげた巨大な機構は、いかにもろく崩れ去り得るということを、我々は実感として持ってしまった。また、情報化社会の巨大なネットワークは日々更新され続け、私たちを絶え間なく様々な次元のヴァーチャルな関係性へと結び付ける。庭の中の小さな自然は、飼いならすことが可能なように見えて、我々の脅威を抱かせない範囲で予測不能性に満ちている。ただ強度だけでない、日常の新たな確かさをもとめて、この幾通りもの開かれた系をつなぎとめる、小さな絆が見出されようとしているかのようだ。

狩野哲郎(1980年–)は、実際の鳥や植物を作品に用い、彼らの秩序にその場所を委ねることによって、それらの関係性からできる新たな風景を立ち上げる。新作《自然の設計/Naturplan》では、荷物縛り用のゴムひもや電気コードなどが危ういバランスで接続されている。果物が腐敗したり、鳥が来てそれをついばむことによって、この全体のバランスが崩れ、時間とともに風景は変化していくことになる。また、窓の外には赤い鳥よけネットの三角形が、空間にドローイングを描くように伸展し、形の連続をみせている。日常的な工業製品の機能は、動植物たちにとっては別の意味を持つものへと変わり、複数の主体が共存する空間を仕掛けることで、作家は、予定調和の外にある出会いの一瞬を待ち構えている。

彼らは進んで、表現に他律性が支配する領域を残し、それを取り込むことで、別の位相を持つ関係性の中に自らを組み込もうとする。[7]  まるで、実りや芽吹きを辛抱強く待ち続け、自然の論理を受け入れながら、自然にはたらきかける庭師のように。そして、日常の延長のままに庭に出れば、草や 木や石、鳥や小動物などの営みに、広大な生態系のシステムの一片や、生成消滅する生命の循環のほんの断片を見出すだろう。あるいは、刻々移り変わる風景と出会う行程のなかで、記憶の底からたぐりよせた自らを観照し、時空を旅する。
そのとき庭は、果てのない庭、終わらない庭となって未来に続いていく。

土方 浦歌(ヴァンジ彫刻庭園美術館  研究員)


[1] 柳父章『翻訳の思想』平凡社、1977年、p. 23。
[2] 18世紀にはイギリス、ドイツで風景式庭園が普及したが、エマソンの自然論にみられるように、自然は完全に客体化されていた。
[3] 重森完途「流派の庭」『日本の庭 続・作庭編』毎日新聞社、1983年。
[4] 三島由紀夫「仙洞御所」1968年 『仙洞御所(カラー宮廷の庭)』淡交社、1977年。
[5] ロザリンド・クラウス「展開された場における彫刻」『反美学―ポストモダンの諸相』(ハル・フォスター編)勁草書房、1987年、p. 79。
[6] 本展出品作家ではないが、杉本博司(1950年–)による併設のIZU PHOTO MUSEUMの坪庭について触れることも重要であるように思われる。2009年の開館に際し、内装のリノベーションと二つの坪庭の設計を行った。小田原近郊にある根府川石を選んだ作業過程や、自然に導かれかれる石組みの実感を作家は自らの「作庭記」に書き残している。おそらく前述の平安期の「作庭記」がその前提にあったかと思われる。
[7] 長谷川祐子氏は、遊戯的なポストモダンの反動として、ユートピア的な理念は「機能性を召還」し、これはまた各領域を対話し横断する「関係性の創出」に向かっていると述べている。(『Space for your future』東京都現代美術館、2007年、pp. 138-149。)
※このページは抜粋版です。 テキスト全文はこちらから→庭をめぐれば / 土方 浦歌

(土方浦歌「庭をめぐれば」、ヴァンジ彫刻庭園美術館開館10周年記念展「庭をめぐれば」 カタログ、2012年、ヴァンジ彫刻庭園美術館 / NOHARA、p. 93 – 97より)


2012, Text